罪悪感を乗り越えて、一人でカフェ時間。
すごいわ、産後の私の脳みそは、もう一人の親である夫が「全然問題ない」と言っている(そして実際問題なくやれる)のに、
娘の世話をお願いして出かけることへの罪悪感がすごい…!
でも折角気持ちが未来へ向けて動き始めたし、オタワの天気は最高で、これはもう出かけるしかない!と言うわけでカフェです。
未来へ向けて動き出したのは、これからの自分のキャリアです。
それはぼんやりと好きなyoutubeを見ている時にふと思ったことでした。
この気持ちを逃したくないから、じっくり向き合いたいな、と思いつくままにノートにぐちゃぐちゃと自分の気持ちを書いています。
そこで気づいたのが「でも、これやってお金になる?」「仕事として独立できる?」「今の私には出来ない」「学校に行くにしてもお金かかる」「モノにならないなら無駄金」という恐れでした。
いや、全然普通の感覚だとは思うんですが。
ただ、そこでもう一歩踏み込んでみて「今すぐ独立出来なくても、とりあえず私仕事あるじゃん、じゃあ好きなもの、興味のあることはそれはそれでいいじゃん」でした。
これ好き、あれ興味あるやってみたい、でもいきなりそれで完璧(自分の思い描く)にたどり着けなくていい、というかそれでいきなり辿り着ける人どれくらいいる?
今の仕事も不満はあれど、ベースは好きで、全く関連ないわけでもないし、それを全部捨てて背水の陣で、完璧な計画で独立に向けて歩む、って少なくとも私の性格ではちょっと違うな、という。
何が小さな一歩かを見つけて、それだけやってみる。
まずはネットで調べてみた→はい、一歩達成。
本屋で興味のあるものを探す→はい、一歩達成。
じゃあとりあえず自分のできることをやってみる→はい、結構大きな一歩達成。
やっぱりやりたくない、しんどい→でも私には今の仕事があるし、ぜろになるわけじゃない→少なくとも現状維持出来てる。
産後を言い訳に怠けている→自分の友人が同じように悩んでいたら、そんな風に思うのか?→思わない。
こう言うのを整理して、頭の中で自分を責めるだけのことをしない、と言うのが私のカフェ時間です。
責めていることで、自分を罰すことで、ある意味逃げてる。
こんなに罰しているんだから、私もういいじゃん、みたいなことでしょうか。
責めることが、私のコンフォートゾーンなんだな、と最近思います。
やるなら結果を出さなきゃ(結果とは、子供の頃ならそれで賞を取る、大人の今ならそれでお金を稼ぐ、と言う感じ)。
それが出来ないなら意味ない、時間とお金を無駄にしている、という呪い。
だから、もし頑張るなら苦しんでいることを免罪符に立ち止まるんじゃなくて、自分の小ささに情けなくて泣いても一歩だけ踏み出すこと。
0か100じゃなくて、1しか出来ない自分でも見つめていくこと。
好きを自分の人生に組み込めたら100点、もし仕事になったら儲けもの。
もっと仕事として精査していきたくなったら、その時。
大丈夫、まだ、残された時間はないようである。
昨日、犬の散歩中に夫に、
「付き合い始めの時、君が自分の年齢に泣いていたことを思い出した。一緒にいても子供が産めないかもってね。現在はどう?僕らには娘がいる」
それを言われた時、今の私が私自身を責めて泣いて出来ない!と叫んでいることが、実はそんなに思い詰めなくてもいいのかもしれない、と感じたのです。
そんなの結果論じゃん、って言われればそうなんですが、その結果が私の人生の一部でもあるなら、もうそれはそれでいいじゃん、という。
それでいいじゃん、が多分私の人生に必要なことなんだと、おもうこのごろです。