愛読Blogの一つで、いつも興味深く読ませて頂いております。
今回の記事で、以下の文が、とーっても心に響いたのです。
(以下一部抜粋)
〜みんなの反応が「そんな気持ちを君が我慢しているなんて知らなかった。話し合おう」となって。心の底から私は「あ〜もういいです‥」と。感情っていうのはなんでも議論で解決するわけじゃないんだよ。傷ついたことを理詰めで覆うのは、人間として寂しすぎるとは思いませんか?という絶望感で〜
ここでの「みんな」は恐らく現地の方々なのかしら。
kikiさんの記事は常々、「なるほど、あの気持ちはこういう風に表現できるのか」とただただ、感心させられております。
私は北米の中でも多様性のあるカナダの一都市部で、
夫(加奈陀人)と暮らしているなかで、
それでも起こる小さな諍いの間にある超えられない(ように見える)壁を、どうしたらいいものか、と考える時があります。
あら貴方、それはちょっと違うんじゃないかしらね?
ということが起きて喧嘩をしても、なんだか開き直っている(ように感じる)夫の態度や言動に絶望しかけたことは数えきれない程あります。
むしろ「ちょっと違うんじゃないかしら」なことはどうでもよくなり、彼の態度に腹が立つやらなにやら…。
夫は「話し合おう、君の気持ちを説明してほしい、今後どうすれば良いのか?」というような台詞を私に投げかけるんですが、
それが、私に絶望感を与えます。
*この絶望感が、果たしてkikiさんのもつ絶望感と同類なのかはさておき(私のお気楽絶望感と比べるのも失礼か…)。
でも、私のこの絶望感が、なんなのか、ちょっとモヤモヤとしていて、分からなかったんですよね。
でも、今回の記事で「なんでも議論で解決しようとする、理詰めで覆うとする」夫の立ち位置に気付きました。
それが良いことか悪いことかは、時には良く、時には悪い、としか言えません。
ただただ、私がそれに対してどう思っているのかは私が決められます。
で、それを踏まえて、私は、そういう夫のやり方に絶望感を持っていたんですわ、と今更ながら気付きました。
私の感情が悲しんでいるのに、なんでそれを投げかけた相手のやり方だけで私の感情を伝えなければならないのか、という葛藤。
悲しんでいる時の私は、議論なんてしたくないのです。
それが「日本の」やり方、とはとても言えませんけれど、「私の」やり方であり、日本で育ってきた背景も無関係ではない…はず…。
受けてきた教育、社会的な立場、個人のあり方、人間関係の構築、などなど、全く違う背景を持つ我々です。
自分のやり方がいつでもどこでも受け入れられることは、海外だけではなく国内でもあり得ません。
それでも、夫にだけは、なにかこう「捨てきれない期待」や「取り替えの聞かないかけがえの無い存在、そして相互理解したい」ようなものがあるのか、結果絶望感を感じるのかもしれません。
まぁ、言ってしまえば、その対象に並々ならぬ気持ちがあるからこそ、色々な感情を持つのかもな、と夫を眺めていて思います。
*そんなことを書いているとはつゆ知らず、ハム食べるー?と言ってきた夫…。
4年以上も一緒にいて、30も後半に差し掛かると、自分のやり方を通すのか、欲しい結果を引き寄せるためにやり方を変えるのか、となると打算も働き、結果重視で動くことが多くなりますが、
そうする一方で、なんだか自分の気持ちが置いてけぼりだな…とふと思ったり。
この辺の加減が、未だに見えてない。
異国で、異文化の人間と人生を共にするうえで、加減・柔軟性を築いていきたいなぁ。
2年目の若造には、まだまだです…。
ちなみに「話し合おう」投げかけには、
「この気持ちを話し合いという別の言葉に置き換えて細かく裁断することなんてしない、まるごと受け止めるしかない!」
と投げ返すようにもなりました。
夫としてはお手上げです、そりゃそうです(笑)
「話し合おう、とさせることこそ「貴方のやり方」で、私はそこには行きたくない、なぜ貴方のやり方が優先されるのか?!次はああして、こう言えと指示などしない!」
と畳み掛けます。
以前は「あ〜もういいです‥」としていましたが、それはそれで納得しないのが夫です。
なので丸ごとでも投げ返すことにしたことは、それはそれで相手に譲歩しているわけです。
「既に私は一歩歩み寄った。貴方はどうするのか?平等を声高に言いたいなら、歩み寄ってみては?私に説明させることは歩み寄りではない。それは貴方のやり方で貴方の場所から一歩も動いてはいない。」
と、なんだかもう、わけが分からないまま気迫で押し通すこともしばしば…。
年の功()なので、相手の痛い点を突くのも入れたり。
「これがお互いの文化的な違いだから、貴方の説明させる・議論させるやり方が通らなかったからといって解決をやめるなら、貴方は自分のやり方を優先させたということだからな」とか。
*夫は、文化の違いによる差別的なことが嫌。
「なんだかんだで、言葉にしているから、ももえよ、それはそれで議論に参加しているんでは?」という内心突っ込みもありますけれどもね。
なんの落ちもなく、これで記事は終わり!
個人の気持ちを書きなぐった、まさに日記的なものだと思ってくださいませ。