先日、在カナダ日本国大使館から
「●昨日、オタワ市内において、米国で発生しましたアフリカ系アメリカ人の死亡事案に関連する抗議行動及び新型コロナウイルスに伴う規制に対する抗議行動がそれぞれ行われました。
●当地において、抗議行動等に遭遇した場合は決して近づかないようお願いします。」
というメールが届きました。
身の安全確保を最優先してほしいことを強調したメールでした。
デモは危険だから近づくな、関わるなという見方。
かたや加奈陀国内のニュースでは、人種差別許すまじ、な雰囲気で放送(特にデモへの参加不参加を強調はしない)。
ネットを見ていると(英語)「見過ごして知らん顔することも罪だ!」という雰囲気。
この大きな運動への関わり方の温度差の違いを実感する日々。
そして、じゃあ日本は駄目だ、参加しない奴は悪だ!と簡単に言えない複雑さが理解できる年齢で加奈陀にいて良かったな、とも思います。
誰かを責めたいわけじゃないですからね。
そして日本社会では、欧米で広まっているいるやり方そのままでは、受け入れられづらいのも想像できます。
だって、30年以上、全ての教育も含めて日本で育ってきましたから。
ただ、思うのは、今回の件で悲しんでいる家族が、暴力に便乗すること無く、今だけではなく未来を考えた行動(選挙)を主張している力強さです。
最も、悲しみの嵐の中にいるであろう人々が、平和を叫ぶ。
そして警官の立場でも、跪き、デモを行なう人々を守る人がいる。
これが人間の持つ高潔さと言わずしてなんと言うのか。
専門外ですが、米国の社会構造的な人種差別の問題の根深さが引き起こした事件は勿論今回だけではありません。
この大きな運動は、これまでの積み重ねとも言えるのでしょう。
さて、私に出来ることは何か。
そして私もいつ当事者になるのやわかりません。
数は少ないですが、「国に帰れ!」と突然道端で叫ばれ恐怖したこともあります。
あのとき、初めて実感として「なるほど、私はこういう理不尽な暴力(言葉も含む)が行なわれる可能性のある場所で生きていくんだな」と思いました。
東洋人として、日本人として、日本以外で生きていくときに付いて回る可能性です。
頭では分かっていましたが、叫ばれたあの日、自分の立ち位置を強く思ったのです。
あの恐怖の数十倍もの酷いことが日常で行なわれている人たちのことを想像しただけで、やるせなくなってしまいます。
怖くて外にも出たくなくなるでしょうし、人生に絶望するでしょう。
そんな日常は嫌です。
そして次世代にも、そんな日々を過ごしてほしくありません。
デモに参加するのも1つ。
被害者の弟さんが言うように、もっと政治の勉強をするのも1つ。
過剰に相手を可哀想がらないことも大事です。
それもまた、相手を侮辱していることになるのでしょう。
大きな影響力を持つ人々のように凄いことは出来なくても、1つ1つできることをする。
明日会った誰かに何かに誠実に向き合うのが、平凡な私に出来ることです。
#blacklivesmatter