夫(加奈陀人)は、ハイキングや登山を愛する男ゆえに、
日本旅行を計画中、東京から京都まで歩くと言い出しました(飛行機が東京着)。
「まぁ、好きにしたらいいよ。私は新幹線使うけど」と放っておいたら、嬉々としてルートを調べているので、本気のようです。
そして、一通り調べたら「バショーが…」と言ってくるんですけど、
そんな英単語があるのか?と首を傾げていたら、
「ナカセンドー」と言ってくる。
……もしかして松尾芭蕉のことを言っているのか?
そうだよ!ようやく分かってくれたね!
みたいな顔されても…と思いつつ、話を聞くと、東京から京都までの旅を「奥の細道(おくのほそ道)」で有名な、あの紀行で考えているらしく。
私は新幹線で行くけど、と益々思った春の加奈陀より、こんにちは。
そんな日本文化を愛する夫と、昨夜は、写真展に行ってきました。
加奈陀の芸術家達の写真を中心に、アートも展示しており、見応えがありました。
そして、意外なほどに、日本を取り上げた作品がありまして。
「これ、築地じゃないか…」
「これ、日本語の看板…ということは、日本のどこかか」
と言った具合に、そこかしこに、日本を見つけることが出来たトロントの夜でした。
そんななか、オレンジから突き出た葱、バナナから生えたガーベラ、と言った、
誰か説明してくれないかしら?
という写真を発見。
こ、これも現代アートというものなのだろうな…きっと…と震えながら横に貼られてる写真紹介を読むと
ikebanaの文字が!
え…これって…生け花のことなのかー!!!解釈斬新です。
色んな視点があるもんだ、と思い、他を見ていると、夫が私に近寄ってきました。
「ちょっと意見を聞きたい」
なにごとか、とついていくと、さっきのikebanaの写真の前に辿り着きました。
「僕は、この写真に憤りを感じています」
お、おぅ…穏やかじゃないな。
ところで、なんで?と尋ねると、
「この写真家は、日本で英語教師時代、たった一クラス生け花を体験しただけのようです。それなのに、生け花とはこういうものだ、としてこの写真を撮っている。なんだか上っ面のように思うんです」
「ふむ」
「是非、日本人である貴方の意見を聞きたいと思って」
責任重大!?
私、生け花師範、家元です!とかじゃ全然ないんですけど…。
というわけで、私個人の私的な視点と前置きをして、
「この写真家が上っ面なのかどうなのかは、私はわからないよ。この人なりの解釈があるのは確かだな、うん。
でも、生け花って、フラワーアレンジメントって訳す人多いし、ここでもikebana arrangement、って書いてるけど、そもそもちょっと違うと思うんだ。
「道」なんだよ。
生け花の花や植物は切り取られたものなんだけど、でも本来の自然の姿を表現する、いや、わかる。再現なんて絶対出来ない、だって切り取られて生けられている時点で、既に自然じゃないものな。
でも、それが生け花の進む「道」なのだと私は思っている。
永遠にゴールには辿り着けないし、切っておいて自然とか意味不明、となる不合理さもあるんだが、それさえも含めて「道」なんだと思うよ。
東洋文化の不合理さって、西洋人からすると「はぁ?」な部分が多いだろう。
でも「はぁ?」も飲み込んだあと受け入れて見つめたときに、見えてくるものがあるんだよ。
それは、一部だけを切り取って、例えばこの写真の場合は、花を飾る・空間を作る、という部分だけを切り取ってしまうと違うものになる(それはそれでいいけど)と思う。
季節、空間、間、土地、客人への意識、場への敬意、命。その中で花という存在を通した道への蒼茫というか」
私も説明してて、よく分からなくなってきたぞ!
日本語でもわからんわい!
でも夫は、どうも納得したようでした。
この夜、私は、夫の凄いところは、西洋文化で育ってきながら、道の文化に対して敬意をもって挑むところだなと思いましたよ。
わかったふりもせず、関心を示しつつ、謙虚な姿勢と言いますか。
まぁ、私、もっと分かりやすくしっかり理解しろよ、と我が身を反省した夜でもありました。